2012年4月28日土曜日

エヴァンゲリオンが好きな人の性格って? エヴァンゲリオンは深いアニメですよね...

エヴァンゲリオンが好きな人の性格って?



エヴァンゲリオンは深いアニメですよね。

私も好きです。

疑問なのが、エヴァンゲリオンが


本当に大好きな人っていますよね?

そういう人たちは、どういう性格の人が多いのでしょう?



(私的のまわりでエヴァが好きなのは

地味な男子、無気力な男子が多いです)



回答待ってます。







エヴァンゲリオンの『深い部分』が好きな人というのは



・数多く散りばめられた伏線,謎の解明を楽しむタイプの人

・登場キャラクターの内面を掘り下げて描かれた作風が好きな人



と,以上の2点について深く考えることが好きな人だと思います.





エヴァのこういった謎な部分は,公式の発表があまりされていないため

ファンは自らが考え,自分なりの答えを見つけるということが求められます.

つまり,一つのことを突き詰めて究明するということをしているわけです.



このように考えると,エヴァの本当に『深い部分』が好きな人というのは,

一つのことをとことん追求する研究者気質な人が多いのではないかと思います.





地味であったり派手であるというのは,あくまでその人の外見的であったり

性格の表面的な特徴の一部に過ぎないと思います.

質問者様がエヴァの『深い部分』を好きだと言うのであれば,そういった表面的なことで留まらず,

その先の深い部分でその人を見てみるといいのではないでしょうか.



長文失礼しました.








私もエヴァが好きです。

暗いと言われたことはありません。

いろいろなタイプの人がいます。

パチンコからアニメにくる人も



一概に言えないとは感じます。







僕は普通の明るい中学2年生です。



旧劇場版の弐号機の最期は、確かに悲惨ですね・・・分かります。



初めて観た時、意味不明でした。



でも、エヴァンゲリオンって、自分で定義してこそだと思うんですよ。

その「意味不明」から、何を見出し、定義するか。

エヴァを定義して行く上で、また自分の人生ってものも違って見えてくると思うんです。



っていうのは、エヴァオタ歴4年の先輩の受け売りなんですけど・・・。その通りだと思います。

その人だって、4年かけてもエヴァのすべてを定義できてるわけじゃない。そういう深さを定義しきって初めて得られる「何か」を求めて、エヴァオタやってます。



どういう性格の人もいると思います。正直、質問者様の質問は、あまり意味をなすものではない気がしますね・・・。だって、「エヴァを好きかどうか」は、性格で決まるのではなく、エヴァの奥深くにある「何か」に気づけるかどうか、と同じなんですから。







価値観は人の数ほど存在すると思います

例えば世界中の人が美味しいという料理がないように・・・

あなたが知っている情報ではそのような方しかいないのかも知れませんが、探せば色々いると思います

芸能人ではDAIGOさんとか、オリラジの中田さん、女優の栗山千明さんだとかいます







mai511love 様



初めまして、tomatokinnikuです(*゚ー゚)v

恐れ多くも回答させていただきたいと思います。



私の周りには理屈っぽくて口喧嘩の強い人が多いですね(-。-;)

でも、面白いヤツの塊ですよ(^∇^)アハハハハ!







内面世界を漂うのが好きで人との交際で自分自身が高まるとは思っていない人だと思いますよ。



私自身、エヴァの閉ざされた内面世界の描写は怖いようなそれでいて共感できるようなものでもあります。



「エヴァ」という作品は、哲学的な文脈でいえば、サルトルの『存在と無』に似ています。サルトルは、『存在と無』において、ヘーゲルやハイデガーの観念論を批判するために、けっして内面(観念)化しえないような、個別的で偶然的な他者との関係性の問題を導入しようとしました。「THE END OF EVANGELION」では、アスカはシンジに、「あんたが全部わたしのものにならないなら、私、何もいらない」といい、一方シンジは、自分を癒してくれない、自分の思い通りにならないアスカを、首を絞めて殺そうとします。つまり、all or nothingです。サルトルが自己と他者との相剋(conflit)といっているのは、そういう事態のことです。それは、互いに相手を自分の「物」として扱おうとするような関係です。



このような文脈でいえば、「人類補完計画」は、ヘーゲルの体系にあたります。それは、始まりが終わりであり、終わりが始まりであるような円環的な体系であり、あらゆる矛盾や対立を動的に内包しつつも、結局は「概念の自己運動」に終始し、すべての矛盾や対立を一元的に統合・解消してしまうような観念的な思想です。そこでは、個別性は一般性に、偶然性は必然性に還元されます。他者との関係は内面化され、意識に対する存在の外部性は消去されます。



ヘーゲルの体系においては、全てがend(終局=目的)に至るための過程にすぎません。全体は終局(目的)から捉えられています。つまり、始めに終わりが前提されています。ヘーゲルの体系においては、個人が子供から大人になる過程も、人類の歴史そのものでさえもが、そのような過程として捉えられます。それは、理念の実現に至るまでの段階的な発展の過程です。無論、この思想は、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』で批判したように、歴史の観念的な解釈としてのブルジョワ・イデオロギーに他なりません。サルトルはそのような観念論から脱却しようとします。



サルトルは、『存在と無』において、ヘーゲル的な観念論を批判するために、キルケゴールの「個別者」の思想を参照しています。キルケゴールが「神の前における個別的な人間」といっているのは、神という一般的な観念ではなく、キリストという一人の具体的な他者との関係において初めて自己自身であるような、個人のあり方のことです。「エヴァ」のTV版の第拾六話のサブタイトル(「死にいたる病、そして」)は、無論キルケゴールの著作名からの引用です。「エヴァ」は、サルトルの『存在と無』と同様に、キルケゴールの思想の倫理的な意味を、正確に捉えています。



しかし、他者をめぐるサルトルの考察は、根底に自己と他者との同一性を前提しているため、概して観念的なヒューマニズム(ブルジョワ・イデオロギー)に傾きがちです。フランスの思想的文脈において、人類学者のレヴィ=ストロースを筆頭とする構造主義者たちがサルトルを批判したのはその点ですが、サルトルの思考は、いわば自己意識の牢獄に閉じ込められています。レヴィ=ストロースの言葉でいえば、それは「コギトの虜囚」です(『野生の思考』)。しかし、そこにはヘーゲルやハイデガーにはなかったような、けっして内面化しえない、個別的で偶然的な他者との関係性へのまなざしがあります。それと同じことが、「エヴァ」という作品についてもいえます。







私の周りでエヴァンゲリオンがすきな友達はやはり地味な人が多いですが、何かについて本気になっている人は勉強の面でも本気になれると以前聞いたことがあり、その友達も勉強は大変できます。また、地味ですがエヴァンゲリオンを好きな人同士が集まると非常に楽しそうに話しています。地味かどうかは一概に決められないと思いました。

あなたの周りのエヴァンゲリオンを好きな方の地味ちか無気力といった悪い面だけでなくよい面もさがしてみたらどうでしょうか?







パチスロ好きなかたは

エヴァが見たくなる。

私のまわりの人は、

パチスロ以外の人では、

ちょっとした変り者

にはエヴァが人気です。

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